ぶらり探訪
金華山の山麓に建つ『三重の塔』



金華山の西面山麓に朱色にかがやく三重の塔がみえる。

 いつの頃だったか定かでないが、確か昭和30年代だったと思う。この三重の塔を横目に、金華山山頂めがけて垂直に登ると言う遊びを友人とよくやっていた。当時、男の子は強くならないといけない!と言うような感じで、山に登ることも必死だった記憶がある。そんな思い出もいろいろあるが、身体的記憶というのは恐ろしいものでこの塔を眺めるとなんだか今でもまっすぐに登りたくなる。

 さて、最近この金華山のふもとを車で通ったとき一瞬違う風景が見えた。何が違う風景なのか解るまで少し時間がかかったが、簡単なことであった。それは、いつもは見えないこの三重の塔が車中から良く見える事であった。な〜んだそんな事かと思われるかもしれないが、僕にとってこの塔は少年時代に戻れる心地よいタイムトンネルなのである。話しを続けると、以前、この場所にどか〜んと大変大きな建物が建っており、それがいつのまにか無くなっていたのである。そんな訳で、この建物の陰にかくれ三重の塔がうまく見えなかったのである。今まで建っていた建物には大変申し訳ないが、それにしても少しの変化でこんなに風景が違って見えるとは、街の景観の難しさをつくづく感じる。
 金華山は長良川の堤防から眺めるのが最高にいい。晴れた日の夕方など西から東にむけて行くと裾野に三重の塔が朱色に輝き金華山全体が本当に美しく見える。先日も堤防道路を眺めながら運転していたがいつ事故をおこすかもしれない−。こんなこともあって久しぶりにこの塔を探訪することにした。

 岐阜公園は以前より整備されており、園内には広葉樹木が多く植えられていたが、葉はほとんどが散って閑散としていた。今回、どんなお姿で御会いできるものかと内心楽しみにトボトボ歩いていくと、塔の相輪だけが樹木の中にここぞとばかり見えてきた。うむ!美しいプロポーション。相輪を目安に近付いていくと今度は全く見えなくなってくる。近くの距離なのに見え隠れするのがまたいい。少し迷いながらも、公園より東30〜40メートル位斜面を登ったところで朱色にかがやく塔が突然あらわれた。おお!ひさしぶりだと、対面した塔を正面に見上げながら一瞬昔の光景を脳裏に探し求めた。う〜んなんかピンとこない。どうしてかなと、5メートルほど基壇をあがって近付いて見ると、どうも最近塗装をやり直したようで古い哀愁を感じる雰囲気にはほど遠く、あまりにも、は・で・や・かになったからだと分かった。少し残念だったが、大切に保存しているからだろう。
僕にとってはもう少しつや消しの落ち着いた朱色がいいな・・・と久しぶりに見る塔につぶやいた。



















では、この三重の塔について探訪記録をお話しましょう。この塔は大正6年11月21日、当時の岐阜市長・服部正が大正天皇御大典の記念に建造した建物です。この建物の設計は日本建築界の大御所で京都の平安神宮、明治神宮、築地本願寺など数多くの秀作品を残している著名な建築家伊藤忠太です。少しお硬い話になりますが、当時の話をいたしますと、この時代の日本建築界は欧米の建築に目を向け建築文化をどんどん吸収している時でした。

 この時期、伊藤は東京帝国大学の建築学科の助教授でした。当時、教授に昇進する前には欧米に海外留学をすることになっていたようですが、そこがちょっと違うところで『これからの日本建築界はアジア建築全体を調査し研究しなければ欧米と対等にやっていくことはできない!!』と言って、明治35年から38年の3年間、中国からインド、トルコへの旅に出てしまいます。そして、日本人ではじめてアジアの仏教建築(インド)を数多く調査し、また世界的な発見である雲南の石窟寺院も見つけるのです。帰国後、伊藤は東京帝大の教授になり、日本建築の主体的な創造を主張し、同時に多くの建築を手掛けます。その中でも有名なのが築地本願寺です。ご紹介しますと、築地本願寺は中心にアーチ型の(タジマハール+ボロブドーゥルのような)石の入り口があり両わきにスツーパ(仏舎利塔)が建っているアジア的な不思議な建物です。ボロブドールは私も実際に見ましたが、この形を日本の仏教寺院によく取り入れたものだと当時の建築家のパワーを感じます。また、塔とスツーパの関係ですが、アジア各地でみられるスツーパは、インドにある印度サンチーBC1世紀が原形とされ、本来お釈迦さまの遺骨(仏舎利)を埋葬する形(シンボル)です。この形がインド(石造り)から中国(木、石)を経て日本(木造り)に伝わり代表的な法隆寺の五重の塔となり日本に広がりました。また、どの塔でも奇数の重層で建てられており、遺骨などは埋葬されておりません。かつてはこの金華山三重の塔内部には観音像(加納鉄哉作)が数体置いてありましたが残念ながら盗難にあったようです。この塔の施工者は川島岩吉と33人の職人により建設されました。興味深いのは建築資材が明治24年の濃尾震災で倒れた長良橋の古材を再利用していると言う事です。この時、なぜ古材を再利用したのか、予算がなかったのか、長良橋によほど市民の愛着があったのか、この塔の建造経緯が解ってくるにつれ、古い物でも上手く再利用する日本人の知恵が感じられます。ぜひ、建物を眺めて当時を推測してみてください。

 県の史跡書などによると、この塔は市内繁興、五穀豊穣を願い、特に都市景観を重視した記念塔だったようです。建築場所を決めるにあたっては当時岐阜市に住んでいた日本画家川合玉堂がこの場所に決めたとあります。このようにこの塔姿はランドスケープ(都市環境、景観、)に重点においてシンボリックな建物であります。石垣積みの二重基壇に建ち、相輪までの総高は25.8メーター、建設費は5500円です。

 建物にはそれぞれの時代の背景や作為が見えてきます。岐阜の金華山の三重の塔は、大正デモクラシーという時代の中で、建築家や岐阜市民たちが精一杯の願いを今日に伝えんとするかのごとく長良橋の古材を再使用している気がしてならない。

吉田和男