フォーラム

私の夢『ウッドロード』
人類の平和と自然との共生の道をひらく 〜連載〜

文=多田直人

1)「ウッドロード」ってなぁに?
 ことの発端は2001年秋、宮大工の杉村幸次郎さんの呼びかけで始まった「つくろう会」発足時に思いついた言葉でした。杉村さんは全国的に有名な「削ろう会」の発起人であり代表者でもあります。かつて作業場で遊び心から始まった鉋の薄削りは、職人魂に火をつけ全国の大工に飛び火して、今では一般の人達をも巻き込んだとてもユニークな活動になっています。
そんな活動の中心にいる杉村さんが、ある時アメリカに行かれ、ティンバー・フレーマーズ・ギルド(TFG)という団体の活動を見て大いに刺激を受け多層です。そして、ぜひ日本でも同じような活動をしたいと思い「つくろう会」の呼びかけを始められました。杉村さんがTFGの活動で一番心に残ったのは、一般の人たちも参加しながら、木造の建築や工作物を一緒に造っている姿だったそうです。そして、もう一つはアメリカの大工さんが木造建築を造るために日本の道具をいっぱい揃え、そして世界最高の日本の木造技術を真剣に学んでいることだったそうです。しかし、今の日本の現状を見てみると大工技術を思う存分発揮できる木造建築が本当に少なくなっています。「このままでは世界一を誇る日本の大工技術が本当に廃れてしまうのでは・・・」そんな危機意識を杉村さんは持たれたそうです。
 その杉村さんの思いを念頭に「つくろう会」の趣旨や活動内容をいろいろと話し合っている中で、大工専門職でない一般の人達も継続的に参加してゆける活動がないかと考えていました。そんな時、遥か遠い昔ヨーロッパからアジアの国々を越えて、日本へとつづく東西文明交流の道「シルクロード」のことが思い浮かびました。そこで、今度は逆に世界一の木造技術と豊かな木の文化、森の文化を持った日本から世界に向かって人的交流と文化的交流を広げてゆく「ウッドロード」という活動を考えました。
2)これって運命?
 2002年秋、おおまかな趣旨は考えたものの、ウッドロードの具体的な活動をどうしたらいいのかと考えあぐねていたある日、なにげなく見た世界遺産の番組で異様な形をした教会が目に飛び込んできました。その建築は、青く透き通った湖に囲まれ美しい花々が咲き誇るなだらかな島にこつ然とそびえ立っていました。屋根には銀色に光り輝くタマネギ型の円蓋が幾重にも折重なり、まるで炎が燃え上がるような揺らめきをもった建築でした。歴史や風土の違いはあったとしても、このような木造建築を見たことがありませんでした。
 教会の名前はプレオブラジェンスカヤ教会といい、ロシアの北西部、北欧スカンジナビア半島の付け根にあるカレリア共和国にあります。島の名前はキジー島といい、美しいオネガ湖に囲まれています。聖堂の高さは地上から37メートルあり、ログハウスのように外壁を立ち上げ、その上に22個のタマネギ形円蓋をのせています。そして銀色に輝く円蓋を覆っているのは金属ではなく、何万枚にもおよぶ柿板(こけらいた)という木の瓦です。それらすべての木材を大工が手斧だけで加工し釘を使わずに建てたそうです。驚くべき大工の技術であり創造力だと思います。1714年、長年にわたる聖堂建設が完成した時、大工は歓喜のあまり自分の斧をオネガ湖に放り投げたそうです。
 そんなすばらしい教会でしたが、内部が映し出された時、とても残念な光景を目にしました。それは老朽化がかなり進んだため、建物が崩壊しないように鉄骨で補強され、とても美しいとはいえない空間でした。そして番組の終わりにユネスコがこの教会を緊急補修対象建築物に指定していると聞いた時、思わず言葉が出てしまいました。
「これって日本の大工が直しにゆけないかなぁ?」
 さっそくつくろう会の定例会議でその思いを伝えた時、一人の女性メンバーが「私も見ていて同じことを思いました。」と答えてくれました。偶然とはいえ同じ思いを抱いた人がいてくれたことにとても感激しました。でも他のメンバーには今一つの反応でした。あまりにも唐突でかけ離れすぎた話なので仕方のないことだと思います。しかし、運命と言うべきなのか、すべてはここから始まったと言えるかもしれません。
 会議の翌日、岐阜で一部の人たちに有名な酒と文化を語る会の「楽三会」に参加した時、国際交流の目的で岐阜にこられていたゲストのナターシャさんにお会いしました。彼女はロシア東南部にあるバイカル湖南端イルクーツク出身とのこと。湖の深さが最深部で1714メートルもあるバイカル湖もまた世界遺産の一つです。偶然にしてもなんという出会い。彼女が故郷の文化や自然についてスライドを見せながらいろいろと話してくれましたが、私の頭の中はキジー島のことでいっぱいで、残念ながら彼女の説明をほとんど覚えていません。ただ唯一印象に残っているのはバイカル湖の美しい風景と、たどたどしい日本語をさわやかに話す笑顔でした。ナターシャさんの話が終わり懇親会になった時、さっそく事の経緯と自分の思いのすべてを彼女につたえ協力をお願いしました。すると彼女はなんのためらいもなく、にこやかな笑顔で「うん。わかった!」と答えてくれました。2003年初春のことでした。

3)一歩前進!
 「世界遺産の教会だから、まずはユネスコに・・・」と思い立ち、調べてみると岐阜総合庁舎の中に「岐阜県ユネスコ協会」がありました。さっそく訪ねてみると二人の女性がお見えになり、事務局長の青谷さんが話を聞いてくださいました。突然のことであり、また唐突な話の内容に戸惑われたと思いますが、とても親切に対応していただき何か方策があれば連絡いただけることになりました。そんなある日、青谷さんから次回の例会に日本ユネスコ協会連盟副会長の鈴木さんがお見えになるので、例会の終わりに直接話をしたらどうかという連絡をいただきました。願ってもないお話にぜひとも参加させてほしいと答え、当日は「つくろう会」のメンバーで主婦代表の滝さんと共に例会に出席させていただきました。例会では鈴木さんが関わられた世界でのユネスコ活動のお話があり、はじめてユネスコの実態を知ることができました。例会の行事がひと通り終わったあと、鈴木としばらくお話をさせていただき、ことの経緯とどのように進めてゆけばいいのかお尋ねしました。すると鈴木さんは「おもしろい!でもロシア側がその支援を望んでいるのかどうかを知る必要があることと、その資金をどうするかが問題。ユネスコはお金がないよ。」と率直に答えていただきました。そして、世界遺産に関しては部署が違うため、こちらの考えを文章にまとめてお渡しすれば、担当の方に相談していただけることになりました。本当にうれしいお話でした。
 その翌日、ナターシャさんからはじめてメールが届きました。彼女はあれからすぐに、大学の先生に手紙を出してくれていたのです。見ると先生の紹介でカレリア共和国文化省国立歴史文化財保護センターディレクターのディービンさんからの手紙。日本からの援助は歓迎するがプレオブラジェンスカヤ教会の修復はまだ始まっていない。もし他の教会を修復する希望があれば今年の夏にでも参加できるとの内容。あまりにもスムーズで急な展開に驚きました。しかし、送られてきた修復対象の教会は、あまり魅力的と思える建物ではありませんでした。そして何よりも、いきなり行く事は実際に無理な話でした。あらためてナターシャさんに連絡をとり、彼女の協力に心から感謝を伝えるとともに、やはりプレオブラジェンスカヤ教会の修復に興味があることと、まだこちらの体制が何もできていない事を再度キジー側に伝えてもらう事にしました。すると今度はキジー文化財情報課長のティトワ・オリガさんとキジー文化財副長のニコライ・ポポフさんの手紙が届きました。お二人の手紙の内容は、まさに私が望んでいた内容でした。まずポポフさんの手紙によると、プレオブラジェンスカヤ教会の修復計画は1981年から始まり、いろいろな国々の修復計画案の中から1999年にノルウェー案を採用し、修復実施準備を2006年までに終える予定との事。そして、こうした事業には国際協力が必要であり、特に日本の伝統技術や修復技術が世界でも有名なため、ぜひ協力してほしいとのことでした。また、オリガさんの手紙では、教会の修復事業を進めるために「キジー大工センター」を設立し、歴史建造物の修復をしながら、大工の技術の継承と発展・普及をめざすことを進めていること。そして、この考え方を世界に広げ大工と修復家の研修場を世界のいろいろな国々に設立し、国際ネットワークを築くプロジェクトを進めているとのこと。したがって「ウッドロード」の考えにとても興味があり協力する用意があるとの内容でした。
 ユネスコの鈴木さんから問われていたロシア側の意向はこれではっきりしました。「ウッドロード」の実現に大きな一歩を踏み出せたと思いました。

4)思わぬ別れ
 さっそく「つくろう会」の定例会議でユネスコの鈴木さんとの話、ナターシャさんから届いたオリガさんとポポフさんの手紙について皆さんに報告しました。皆さんは一応に感激していただきました。でも「どうするんだろ?」という声。確かに会そのものの運営もまだ未確定な中でこのような活動が現実的に可能なんだろうかという疑問があったと思います。私自身にもこの大きな計画があまりにもスムーズに進んでゆくことに戸惑いがあったことも事実です。話し合いの後、「つくろう会」としてどのようなことができるのかを考えるためにはもう少しキジー側の要望を確認する必要があることと、教会の現状を知るために資料をできる限り集めてもう一度話し合うことになりました。そして、私に投げかけられた要望は「ウッドロード」とは一体なんなのか、なぜ「キジー島」なのかを皆さんにあらためて説明することになりました。
 後日、定例会議の内容をナターシャさんにつたえ、再度修復計画の内容を聞いてもらうことをお願いしました。するとナターシャさんから一つの要望がありました。それは彼女が派遣されている財団法人岐阜県国際交流センターでの滞在期間が2003年7月末で終わるため、このまま日本に残れるように「キジー島」の修復計画について上司に話してほしいとのことでした。まだ未確定な計画と民間団体からの要望がどこまで受け入れられるかわかりませんでしたが、「キジー島」の計画を進めていく上で、ロシア側との唯一のパイプ役であり通訳であるナターシャさんがどうしても必要であったため、国際交流センターに出かけ事務局長さんに彼女の必要性を説明し、このまま日本に残れるようにお願いしました。しかし、私の力ではどうにもならない問題でした。彼女が日本を離れるまでにあと二ヶ月しか時間がありませんでした。
 どうすべきか思い悩み杉村さんに相談しところ、ともかくナターシャさんと会って今後のことを話し合おうということになりました。そこで会合の場所を滝さんにお願いして岐阜の実家をお借りすることにしました。建物は明治初期頃に建てられた町家で中庭には屋根よりも遥かに高い松が植えられています。当日朝から降っていた雨が不思議とあがり、中庭に明るい日差しが差し込んでいました。ナターシャさんはこのような日本家屋がはじめてのようでとても気に入っていました。話は「キジー島」のことになり、ナターシャさんはこの計画はぜひ実現したいのでロシアに帰っても協力したいと言ってくれました。そこで今後どうするのかとなった時、杉村さんがおもむろに「まぁいくだわさ〜」と一言。これには本当に驚きました。「頭でいろいろ考えても実際にどうなのかわからない。だから自分は、その場に自分の体を持ってゆき、自分の体で感じ取り、自分の体を通して判断してきた。俺はずうっとそうしてきた。」だから、今回も本当にかかわり続けるかどうかを判断するために「キジー島行き」を決めてこの場に臨んだとのことでした。何の判断材料も持ち合わせていなかった私はうろたえながら「へぇ行くんだ」と答え「キジー島行き」が決定しました。そして、キジー島での再会を約束してナターシャさんと別れました。